「パリ・左岸 深夜の客」初沢克利著
1972年2月、著者はシベリア鉄道経由でパリにたどり着く。以後、10年間モンパルナスに住み続け、帰国後もたびたび同地を訪れてきた。その間、数え切れぬほど通ったカフェ・セレクトを舞台にした写真集。
1923年創業というその老舗カフェは、パリの左岸、モンパルナス通りを挟んで有名なカフェ・クーポールの向かい側にあるが、こちらには観光客はほとんど足を運ばない。街路に向かって籐椅子が並ぶテラスの景観は、パリのカフェそのものだが、かつてアメリカンバーとして栄えた内部にはカウンターが続き、ワイングラスを手にした客たちのおしゃべりは深夜2時すぎまで続く。創業当時からパリ在住のアメリカ人に愛され、作家ヘミングウェーも常連客のひとりだったという。
客たちがくゆらす紫煙に包まれ、会話のさざめきがBGMのように流れるこの店と、ここに集まる人々に魅せられた著者は、やがて朝はカフェオレとクロワッサン、夜はメドックやサンテミリオンとともにこの店で過ごすようになる。
そうした日々の中で出会った店の客たちの姿をとらえた作品が並ぶ。
最後の一滴までコーヒーを味わいつくそうとしているかのようにカップを傾ける老婦人、たぶん話に夢中な大人を待ちくたびれ、椅子に沈み込むように座りコミックを読む少女と、その少女と背中合わせの席でたばこを手にくたびれた様子の女性が醸し出す気だるい空気、かと思えば陽光の差し込む窓際の席で何やら熱く語り合う男女の若者3人組など。
それぞれのテーブルを舞台にして即興で始まる客たちの物語のワンシーンを切り取る。
散歩の途中に立ち寄り、店内に連れ込んだ愛犬に角砂糖を与える中年男とその母親のような2人連れ、4年間も毎日のように店内で絵を描き続ける男など、カフェでの時間が日常の一部となったパリジェンヌ、パリジャンたちの姿はなんとも絵になる。
しかし、やはりパリのカフェの主役といえばカップルだろう。何かを一心に話しかけている男の肩越しに見える女の微妙な表情、店内の何かに気を取られ見つめる女と彼女の変化に思わず振り向いた男、相手の手を取って優しく唇を寄せる男と恍惚の表情を浮かべる女、そして別れ話でもこじれたのか男の肩に顔を寄せた泣き顔の女、まるで映画のような場面が次々と展開される。
ある夜、著者は目の前を通ってテーブルに着いたカップルの女が本物の映画女優のエマニュエル・ショーレだと気づき思わずシャッターを切った。
気づいた彼女は「ごめん、撮らないで」というしぐさをしたので、彼らが立ち去るとき話しかけて改めて撮影をお願いすると、彼女は「今はダメ、Ju suis seule(今、とっても孤独なの)だから」との言葉を残し、その代わりに著者のテーブルの上にあった絵はがきに詩のような言葉を書いて去ったという。
そんなドラマが起こるのがカフェ・セレクトであり、モンパルナスという街なのだろう。
(立案舎 3600円+税)