遅咲きの名バイプレーヤー 大杉漣さんは気遣いの人だった
■芝居への情熱と周囲への気配り
遅咲きだった。1951年、徳島県生まれ。明治大を中退し舞台俳優となり、転形劇場に入る。ピンク映画にも多数出演しつつ、演技を磨いたが、転形劇場は88年に解散し、37歳で活動基盤を失ってしまう。それでもVシネマで細々と俳優を続け、40歳のときに受けた北野武監督「ソナチネ」のオーディションが転機に。
1時間も遅刻したにもかかわらず合格、同作品で注目を集め、さらに「犬、走る DOG RACE」(崔洋一監督)、「HANA―BI」(北野武監督)などで日本アカデミー賞、キネマ旬報賞、ブルーリボン賞など映画各賞で数々の助演男優賞を受賞した。その後は刑事、やくざ、サラリーマン、不良中年まで幅広い役を演じ分け、「300の顔を持つ男」との異名で呼ばれるように。最近はバラエティー番組でも活躍していた。
スポーツ紙出身の映画ジャーナリスト鈴木元氏が言う。
「初めてインタビューさせていただいたのが98年の夏、『犬、走る』の公開前でした。スクリーンではこわもての役柄がさまになり、そのイメージを持たれる方もいらっしゃると思いますけど、素顔は気遣いと気配りの人。インタビューではサッカー選手を目指して上京しながら、けがでの挫折、無言劇の転形劇場での経験、ピンク映画時代の苦労など、とても楽しく語ってくださり、予定の1時間が2時間半になったのを覚えています。『それで大丈夫なの? こんな話もあるよ』と、にこやかに、ちょっと照れた笑顔を向けてくれるのが印象的でした。最近も趣味でサッカーを続けられていたし、お元気だと思っていたので、あまりに突然の訃報が今も信じられないでいます」