映画「ひまわり」の名匠デ・シーカに悪いことをしたと思っている
高3の秋に、その映画のポスターだけは駅前で見ていた。この年はヒッピーとドラッグとフリーセックスの「イージー・ライダー」に始まり、GW興行ではマフィア物の「シシリアン」、ビスコンティ監督がナチスの退廃を描く「地獄に堕ちた勇者ども」、鬼才アントニオーニがアメリカを風刺してピンク・フロイドの曲が流れる「砂丘」などが大挙してやって来て、映画狂少年には忙しい時だった。そんな中、悲哀たっぷりの反戦的メロドラマは大人の偽善に思えて、信じられるかと高をくくって見なかったのだ。名匠デ・シーカに悪いことをしたと思っている。
先日、NHKBS番組で、映画至上主義者スタンリー・キューブリックは語っていた。「観客の期待を裏切る結末にするか否かは好みでいい。常に問題なのはメロドラマを作り出す幻想を終始、推し進めるか、それとも、自分の人生観を反映させるかという点だ。メロドラマは登場人物にさまざまな困難を与えることで世界は善意に満ちたフェアな場所だと観客に示す。その試練や苦難、不運のすべてはそのために用意される。一方、悲劇や現実に近い形で人生を描くモノでは観客は見た後、空しさを覚えるかもだ。だが、世界のありのままの姿を伝えようとしない定石どおりの手法は、娯楽映画でない限り、あまり価値はないだろう」と。
翌日、彼の70ミリ大作の奴隷反乱史「スパルタカス」(60年)を見直し、紀元前1世紀のローマが現代に思えて圧倒された。ゴールデンな映画は大いに再上映されたらいい。安い作り話はうんざり。