上岡龍太郎には桂米朝と共通する「品のある笑い」があった
上岡が早々にスパッと58歳でやめたその身の振り方には、この言葉も影響していたのではないか。
「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流、 恵まれない天才」と自らを称していた上岡は弟子のぜんじろうに「長いものには巻かれるな。大樹の陰には寄り付くな!」と言ってい たという。
フランスの作家ラブレーは「すべての道化は戦争を否定する。戦争とはこわばりであり、道化とはすべてのこわばりの敵であるからだ」と喝破しているが、私は上岡とそうした道化論を語りたかった。
あるいは、飯沢匡の『武器としての笑い』 (岩波新書)について、どう思うかを。
シェイクスピアと近松門左衛門を同時代人として比較する人がいるが、シェイクスピアは多くの喜劇を書いたのに、近松は書いていないし、近松の書いた義理と人情は人間性の解放から程遠いと飯沢は指摘している。
さらに、「笑いは下剋上の本質を持っている」として、こう続けているのである。
「儒教もユーモアのない道徳律であって、 孔子の伝記を読むと、斉の景公のところで喜劇役者を斬り殺している。笑いにとって孔子は大きな敵なのである。論語を読んでもユーモアはどこにもないところ、キリストの聖書とよく似ている」
これらのことを上岡はわかっていた。とすれば『週刊新潮』の6月15日号で百田尚樹などが追悼の弁を語っていい人物ではない。それは上岡への冒とくである。(文中敬称略)