バルセロナ最終選考会議で伊藤智仁代表入りを強く主張した
翌年にバルセロナ五輪を控える中、私は新しい投手の発掘に余念がなかった。
それまでの国際試合で活躍をし、日本の主戦投手候補として期待を寄せていた新谷博(日本生命)、若田部健一(駒大)がプロ入りの意向を示し、91年ドラフトで新谷が西武から2位指名、若田部がダイエーから1位指名され、プロへと巣立っていった。当時の五輪はオールアマチュアで構成され、プロの選手は出場できなかった。
5月に伊藤の投球を見た段階で、実力を高く評価していた私はその秋、伊藤と面談し、「もう1年、アマチュアでやらないか」と声をかけた。伊藤はその年が入社3年目で、プロ入りすることも可能だったが、残留を決心してくれたことで、五輪の強化指定選手に指名。バルセロナ五輪後までドラフト指名が凍結されることになった。
91年12月の鴨川合宿から代表に合流した伊藤は、翌92年3月7日、プロアマ交歓試合で代表初登板。四回から3番手としてマウンドに送ると、すでにプロ屈指の捕手に成長していた古田敦也(ヤクルト)からスライダーで空振り三振を奪うなど、4イニングを無安打に抑えた。5イニング目こそ2点を失ったものの、プロ相手に期待通りの堂々たる投球を見せてくれた。