夢中になるものがあれば人生を粗末にはしない
「阿呆の鳥飼」内田百閒著
内田百閒は、夏目漱石の門下生で、「名文」の作家として知られ、「百閒が好き」と言えば通には「おっ」と一目置かれる。その独特のユーモアを愛する根強いファンは多い。その百閒の、小鳥をはじめとする小動物に関する随筆を集めたのが「阿呆の鳥飼」だ。無類の小鳥好きで、生き物たちをめぐる一喜一憂の「阿呆」ぶりがとにかく面白い。
大学を出てまだ就職先が決まらない時期に、妻子もいるというのに、なんと50羽もの小鳥の世話に明け暮れ、いったんは反省したかと思いきや、のちにまたやりくりの苦しいさなかに、気づけば35羽も飼っている。小鳥屋で可愛らしいミミズクを見つけたといっては、生活費に困るのも構わず、有り金をはたいて衝動買いし、リスが珍しいといっては、ピアノの演奏会へ行く途中に我慢できずに買い、帰るまでに死なせてしまう始末。外出中にヒヨドリが野良猫に殺されたとなると、物干し竿に出刃包丁をくくり付け、いざ敵討ちへ。小鳥の病気がよくなれば踊りだして大喜び、悪化すれば一日中手のひらに抱いて温め、死ぬといつまでも涙が止まらない。
空襲の夜には何をおいても鳥籠を手にして、一晩中火の中を逃げ惑う。
尊敬してやまなかった「漱石先生」に対してもいざ小鳥のこととなると、「丸で素人」、漱石の名作「文鳥」も「文鳥の飼育報告書としては、先ず落第」と上から目線だ。
百閒は、「趣きのある鳥ほど飼いにくく」、「それを飼うのでなければ面白くない」。「飼いにくいと云うのは、粗末には生きていない事を意味する」という。これは裏を返せば、粗末に飼えば死んで(殺して)しまうということだ。だから飼う者は、阿呆のように夢中になり、泣いたり笑ったりできる。それが同時にその人生を豊かにすることを、この本は教えてくれる。
これは人生の一面を言い当てている。粗末に生きていない人ほどこだわりが強く、それが魅力ともなり、また何か夢中になれるものがあれば、人は粗末に生きることはない。阿呆と言う人と言われる人、どちらの人生が面白いだろうか。(中央公論社 800円+税)