「35年目のラブレター」小倉孝保著

公開日: 更新日:

「35年目のラブレター」小倉孝保著

 還暦を過ぎて初めて読み書きを学び、愛する妻にラブレターを書いた人がいる。西畑保さんという。

 西畑さんは紀伊半島の山深い村で育った。家業は炭焼きで、父も母も働きづめだった。小学校までは子どもの足で片道3時間。極貧ゆえにいじめられ、低学年で学校を辞めた。家には新聞も本もない。文字を知らずに育った。

 戦争が終わって3年、西畑さんは12歳で社会に出た。そのとき父は言った。「読み書きで苦労するやろな」。食堂で働き始めてほどなく、父の言葉の意味を思い知る。自分の名前が書けない。店のメニューが読めない。客の注文をメモできない……。でも、そのことを周りの人に知られたくなかった。

 結婚は夢のまた夢と思っていたが、初めての見合いの相手に一目惚れ。西畑さんは読み書きができないことを打ち明けられないまま結婚する。しかし、隠し通せるはずもない。ある日、妻の目の前で回覧板にサインする羽目になり、ついに秘密を打ち明ける。身を震わせながら謝る夫を見て、妻は驚く。

「何で謝るの? つらかったのはあんたやんか。ほんまにつらかったんと違うの?」

 妻の目は潤んでいた。

 西畑さんは寿司屋を定年退職後、夜間中学に通って「あいうえお」から学んだ。そしてついに、漢字交じりのラブレターを書くまでになった。丁寧に記された一文字一文字に、西畑さんの努力のあとがにじむ。

 本作は西畑さんの人生を自伝スタイルでまとめたノンフィクション。つらさを抱えて懸命に生きる夫と、明るく支える妻の心温まる物語なのだが、それだけではない。

 戦中戦後の貧困と混乱の中で教育の機会を奪われた人が少なからずいたこと、自力で学び直すことの難しさ、夜間中学の存在意義など、社会が見過ごしてきた現実に目を開かせてくれる。

 この感動の実話は笑福亭鶴瓶主演で映画化が進行中。

(講談社 1980円)

【連載】ノンフィクションが面白い

最新のBOOKS記事

日刊ゲンダイDIGITALを読もう!

  • アクセスランキング

  • 週間

  1. 1

    阿部巨人V奪還を手繰り寄せる“陰の仕事人” ファームで投手を「魔改造」、エース戸郷も菅野も心酔中

  2. 2

    ドジャース地区V逸なら大谷が“戦犯”扱いに…「50-50」達成の裏で気になるデータ

  3. 3

    大谷に懸念される「エポックメーキングの反動」…イチロー、カブレラもポストシーズンで苦しんだ

  4. 4

    渡辺徹さんの死は美談ばかりではなかった…妻・郁恵さんを苦しめた「不倫と牛飲馬食」

  5. 5

    松本人志は勝訴でも「テレビ復帰は困難」と関係者が語るワケ…“シビアな金銭感覚”がアダに

  1. 6

    やす子の激走で「24時間テレビ」は“大成功”のはずが…若い視聴者からソッポで日テレ大慌て

  2. 7

    安藤サクラ「柄本佑が初めて交際した人」に驚きの声…“遊び人の父”奥田瑛二を持つ娘の苦悩

  3. 8

    堂本剛、松本潤、中山優馬…そして「HiHi Jets」髙橋優斗の退所でファンが迎えるジャニーズの終焉

  4. 9

    「光る君へ」一条天皇→「無能の鷹」ひ弱見え男子…塩野瑛久は柄本佑を超える“色っぽい男”になれる逸材

  5. 10

    虎の主砲・大山を巡り巨人阪神“場外乱闘”に突入か…メジャー挑戦濃厚な岡本の去就がカギを握る