立川談志は亡くなっても弟子の食い扶持の面倒まで見ている 復帰高座での忘れられない思い出
「寄席にも行ったことがないだろう」と言われたけど…
僕はなぜか、談志さんに単独で取材することが多かった。食道がんの手術から高座に復帰する日の朝も、家を出た談志さんを突撃すると、「おまえさんなんか、寄席にも行ったことがないだろう」と言われてしまった。
「池袋演芸場で師匠が『ネタのリクエストに応える』と言った際、『黄金餅』を頼んだ」と答えると、その復帰高座でなんと黄金餅を演じてくれたのだ。取材陣に囲まれ、「ネタを間違えた。あのネタは力が入るんで、病み上がりにはキツい」と僕を見ないでしゃべっていた。僕にだけわかることで、一番の思い出になった。
落語協会との問題について聞くと、「おまえはどう思うんだ?」と尋ねるので、自分の考えを伝えると、「ああ、それでいい。それを説明してくれ」と答えてきた。それじゃあ、取材にならないのだ。
病院に来た談志さんに「どうしました?」とカメラを向けると、「屁が出ねぇんだ」とケムに巻かれたり……。晩年に取材すると、「名刺ってやつを作ったんだ。俺が死んだら高い値がつくかも」とか、たくさんの印象を残してくれた。叱られて泣いた若い女性リポーターもいたが、今は思い出のひとつだろう。
本当に魅力があった。だからこそ、いまだに弟子が本に書いて商売になる。亡くなって10年以上が経っても(2011年11月21日死去)、なお、弟子の食い扶持の面倒まで見ているとは、すごい人だ。