石川ひとみさんが歌手を目指したきっかけは天地真理 初対面は「ウワーッ白雪姫!」
ヒット曲「まちぶせ」はあり得ないことが重なって
歌手になりたい! そう思って通い始めたのは渡辺プロダクションがやっていた東京音楽学院名古屋校でした。そこをやめてから、新聞記事で渡辺プロのオーディションがあることを知り、受けたら合格しました。次にそこで知り合ったフジテレビの方に誘われ、「君こそスターだ!」に出ることになって、7週勝ち抜くことができました。そんな経緯もあって真理さんが所属していた渡辺プロに入ることになりました。
天地真理さんと最初にお会いしたのは慶応大学の学園祭でした。その頃の真理さんは一度お休みした後。でも、私は憧れの人に会うことができてもう感激、ウワーッみたいな。白雪姫だって! 涙をボロボロ流し、うれしくて、何を言ったか、まったく覚えていません。ご自身が体を悪くしていたかもしれないのに、「頑張ってください」と優しく声をかけてくださったのだけは覚えています。
■誤解、偏見で苦しんだB型肝炎
その後、もう一度、NHKの仕事で楽屋でもお会いしました。その時も私は舞い上がってしまい、何が何だかわからなかったですね。
私が歌手になりたいと思うようになったのは天地真理さんの影響がとても大きかったと思います。
デビューしたのは78年です。2作目の「くるみ割り人形」で新人賞レースに出させていただくことができました。その翌年からはNHKの人形劇「プリンプリン物語」で声優として3年間主役を、82年から太川陽介さんと「レッツゴーヤング」の司会を務めました。
ただ、その間も曲はコンスタントに出していたけど、自分で納得できる結果を出すことはできなかった。実は両親とは4年間という約束をしていたんです。その時はちょうど4年が過ぎた頃。次の曲を最後にして歌手に区切りをつけ、人生を見つめ直す覚悟でした。
そんな時に出合ったのが「まちぶせ」だったんです。候補曲がいくつかあって、スタッフはどっちにするかと考えてくれていたのですが、そんな中で候補に挙がっていたのが「まちぶせ」でした。
「まちぶせ」は荒井由実さんが作詞・作曲の曲。最初は76年に三木聖子さんの曲としてシングルが発売されました。5年前、私が高2で東京音楽学院名古屋校に通っていた時に練習曲として渡されたのが実は「まちぶせ」でした。私と「まちぶせ」は16歳の時に出合っていたわけです。第一印象は歌詞が当時の私の経験に似ているし、それまで歌ってきた曲調と違い、新たな魅力を感じました。学院で初めてレッスンした日の帰り、すぐにレコード屋さんに行って「まちぶせ」を買い、毎日歌っていました。
その5年前のことも、次の曲で歌手をやめると決心をしていることも誰にも言っていませんでした。そんな時に目の前に「まちぶせ」がやってきました。私はそれまで自己主張したことはなかったのですが、レコーディングディレクターさんとかスタッフの方に「『まちぶせ』が歌いたい」とこの時、はっきり伝えました。
私はもう「まちぶせ」を歌うことしか考えていなかったし、この曲が最後って決めていましたね。この曲なら最後になっても後悔することはない……。
そう思っていつもステージに立っていました。ヒットするとかしないとか考えていなくて、歌っていることがうれしいし、楽しい。どこに行っても大人から小さなお子さんまで口ずさんでくれるし、お客さまの中で一人でもいいから見に来てよかった、いい歌だと感じてくれたら、満足という気持ちでしたね。
「まちぶせ」は歌番組のベストテンにもランキングされました。そういう場に立つのは初めての経験でした。その後、あの時やめるなんて、周りに言わなくてよかったなと思いました。私がやめなかったら「やめるって言ってたじゃない」という人もいたかもしれないわけだから(笑)。
「まちぶせ」のヒットでやっぱり歌が好きと気がつき、もう歌への情熱はどんなことがあっても消えないだろうと思いました。
その後、つらいこともありました。87年にB型肝炎を発症して入院しました。大変でしたけど、得るものも大きかったと思っています。B型肝炎はおもに血液感染なので、普通の生活ではなかなかうつることはありません。でも、風邪やコロナのように感染するものと誤解され、避けられたり、近くに寄るとうつると思われたりすることもあった。誤解、偏見がありました。
病状が安定してからは正しい情報を発信しないといけないと思い、「いっしょに泳ごうよ 愛が支えたB型肝炎克服記」という本も出して講演活動も行いました。
コロナになる前から浅草の「アミューズカフェ」で10回くらいライブをやっていました。そのライブがきっかけとなり、その後に、40周年記念のアルバム「わたしの毎日」をリリースすることができました。