なぜスマホ、AIの進展で労働時間は減らないのか…望ましい労働は「一日4時間」?
古代には、労働からの自由によって教養ある個人と文明が生まれた。だが1932年には、アメリカ人男性は暇をいやがるとラッセルは言う。息子たちにも懸命に働くことを望み、息子たちは文化と文明のための時間を失う。
必要でもないのにこんな状態が続くのはどうかしているとラッセルは考えた。「これまで、私たちは機械が出来ない前と同じように、根かぎり働いて来ている。この点で私たちは今まで愚かであったが、永久にずっと愚かである道理はない」
1932年であれ2020年であれ、一日4時間労働が導入されたら、みんな何をして過ごせばいいかわからなくなると主張する人もいるだろう。ラッセルもそれを認めるが、過去には必ずしもそうでなかったと論じる。「昔は気楽に過ごしたり遊んだりする能力があったが、これは効率性の崇拝によって多少なりとも抑えつけられてきた」
ラッセルの考えでは、人は自由時間を受け身で過ごすようになった──映画やサッカーを観に行ったり、ラジオを聴いたりするようになった(現在のメディアの状況についてラッセルがどう考えるか想像してほしい)。ラッセルはこれを仕事のせいにする。人々が自由時間を受け身で過ごすのは、働きすぎだからだ。
この状況は今も変わらない。仕事が減れば、ほかの活動にもっとエネルギーを注げる。たとえばフォークダンスは、かつてヨーロッパの大部分で大人気だったが、1932年にはすでに過去の思い出になっていた。
ラッセルの解決策は? 「労働時間の短縮」というのが当時の彼の答えだ。教育を拡大し、有意義に暇を過ごせる趣味を身につけさせるべきだとは考えない。学問の世界は文明と庶民のニーズから切り離されているとラッセルは考えていた。
仕事時間が減れば、好奇心と向学心がおのずと高まる。暮らしを立てる必要から切り離されれば、学びは創造的になる。
過去の有閑階級は無粋で抑圧的で、必ずしも聡明ではなかった。それでも、「私たちが文明と呼ぶもののほとんど全部を与えてくれた。この階級は芸術をつちかい、科学を発見し、書物を書き、哲学を創(はじ)め、社会関係を上品なものにした。圧迫されたものの解放でも、たいてい上流階級から始まった。有閑階級がなければ、人類は決して野蛮の状態から脱することはなかったであろう」
1932年に書かれたラッセルのエッセイに今でも訴求力があることに驚かされる。その後もわれわれは「愚か」なままのようだ。1930年代のライト、ケインズ、ラッセルにこう尋ねられたら、どう答えればいいのだろう?
「2020年はどうなっていますか? 愛する人たちと過ごす時間と余暇がたくさんあるのでしょう?」
きまりの悪い思いをして認めるしかない。長時間オフィスで過ごし、無意味な活動に取り組んでいて、みなさんが想像していたのとは似ても似つかない都市で暮らしていますよと。
【著者】
▽デニス・ノルマーク
1978年生まれ。デンマークの人類学者、講演家、著述家。オーフス大学で人類学の修士号を取得したのち、長年にわたってコンサルタントや企業の社外取締役として働き、現在はフリーの講演家およびコメンテーターとして国際的に活動している。英訳された『Cultural Intelligence for Stone-Age Brains』など、文化や文化の差異についての著書がある。
▽アナス・フォウ・イェンスン
1973年生まれ。フリーで活動するデンマークの哲学者、著述家、劇作家、講師。パリのソルボンヌ大学で哲学の修士号、コペンハーゲン大学で博士号を取得。英訳された『The Project Society』や『Brave New Normal: Learning from Epidemics』など10冊の著書があり、そのほとんどが現代社会と私たちの現状を論じたものである。ウェブサイトはwww.philosophers.net およびwww.filosoffen.dk。
【訳者】
▽山田文
翻訳者。訳書に『ステイ・スモール 会社は「小さい」ほどうまくいく』(ポール・ジャルヴィス、ポプラ社)、『地球の未来のため僕が決断したこと 気候大災害は防げる』(ビル・ゲイツ、早川書房)、『「歴史の終わり」の後で』(フランシス・フクヤマ、マチルデ・ファスティング、中央公論新社)などがある。