野村謙二郎は両親から野球のセンスと俊敏性を受け継いだ
三塁には後にバルセロナ五輪の代表メンバーとなる若林重喜がいて、謙二郎が3番、若林が4番を打っていた。2人は甲子園出場はかなわなかったが、謙二郎は駒大へ、若林は立正大を経て日本石油へと進み、野球人として成長をしていく。後輩たちとともに五輪で戦えたことは、とても喜ばしかった。
謙二郎は駒大に進学した1985年、1年春の開幕戦(日大戦)でスタメンに抜擢された。私はその試合を神宮へ見に行った。1番を打ち、センター前に初安打したと記憶している。その後、広島カープへ入団。初めて先発出場した試合で、大学のときと同じく中前打を放った。節目の試合で同じ安打を打つのは、巡り合わせが良いというのか。実力はもちろん、強い精神力や運を持ち合わせていた。
■五輪直前に頭部死球
ソウル五輪開催年の6~7月に行われた日米大学野球選手権では、後のソウル五輪決勝で対戦する米国代表の隻腕左腕、ジム・アボットから頭部に死球を受け、東京の慶応病院に入院することになった。
私が見舞いに行くと、謙二郎は「大丈夫です」と気丈に振る舞っていたが、その後の状態が懸念された。そんな危機を乗り越え、ソウルの舞台に立った。スタメンでの出場機会はなかったが、3試合に出場し、銀メダル獲得に貢献してくれた。