遠藤航 類まれな人間力と発信力で五輪代表を牽引する
日本代表で8年間、主将を務めた長谷部誠(フランクフルト)が、ロシアW杯を区切りに代表を退いた状態で始動した森保体制。最初にボランチの軸に据えられたのは柴崎岳(レガネス)だった。
同W杯で長谷部とコンビを組み、全試合先発したのだから、指揮官が重用するのも当然だった。
その他にもW杯経験者の青山敏弘(広島)や山口蛍(神戸)も戦力と位置付けられたため、必ずしも遠藤は特別な存在ではなかった。
その扱いが変化する契機となったのが、ベルギー1部・シントトロイデンへの移籍だ。
湘南や浦和時代は3バックの一角で起用されることが多く、「世界で戦うことを考えるとボランチを極めたいけど、チーム事情もあるから仕方ない」と本人も中途半端な扱いに悩んでいた。
が、18年夏に赴いた新天地では、ボランチの主力としてプレー。この働きが評価され、19年夏に当時ブンデス2部のシュツットガルトからオファーが届いた。