鈴木規夫プロ「日本のスズキはオートバイだけじゃない」
鈴木規夫プロ(69歳)
メジャー大会の全英オープンには、今では日本国内でも出場権獲得の道が開かれ、毎年多くの日本人選手が出場するようになった。
そんなお膳立てがない半世紀近く前の1976年、バッグを抱えて単身で全英オープン(ロイヤルバークデールGC)に乗り込み、日本人初のトップ10に入ったのが鈴木規夫だ。それも現地での予選会を突破しての出場だった。
鈴木は72年に21歳でプロテスト合格。初優勝は74年「九州オープン」。
切れ味抜群のショットと気迫のこもったプレースタイルから“九州の若鷹”と呼ばれ勢いがあった。
76年全英は、予選会に800人が出場して、本戦出場は12人だけという狭き門だった。
大会初日は69で回り、米ツアー9勝のほか日本オープン連覇など世界91勝のセベ・バレステロス、C・オコナーと首位タイに並びそのニュースはすぐに日本にも伝わった。
しかし2、3日目はリンクスの洗礼を受け、ともに75とスコアを崩したが、最終日は70とカムバック。翌年の出場権を獲得する10位フィニッシュ。その活躍は現地でも話題になり、「日本のスズキとは、オートバイだけじゃない」と大きな注目を浴びた。
全英オープン挑戦は、日本ツアーに出場したピーター・トムソン(全英5勝)がきっかけだった。
「全英オープンの予選会があるんだけど出てみないか? エントリー用紙を送るから意思があるならチャレンジしてみてくれ。日本で強がっていちゃいけないよ。もっと君はグローバルな選手にならなくてはいけないから」(トムソン)
当時の日本ツアーにも海外志向の選手はいたが、多くはマスターズや全米オープンなど米国に目が向いていた。だが、鼻っ柱も強く、他人と同じ流れを嫌い欧州を選んだ。
「トムソンから声がかかったその時、チャレンジというか、違うことをやることでやりがいもあるのかなと出ることを決意しましたね。当時お世話になった先輩の橘田規さんに、“全英オープンに行こうと思ってます”と伝えたら、いいぞ。勉強してこい。緯度は北海道と同じだから、日中は暖かいけど、夕方になると寒くなるから気温の寒暖差が激しいぞ、と言われて暖かいウエアを多めに用意しましたね」
当時所属した会社社長に全英挑戦の意思を伝えると、まず言われたのは「行くのはいいが自信はあるのか? と。自信がないなんて言えないからね、あります! ってそりゃ言ったよ(笑い)」。
予選会を通過した時は、「とりあえずひとつはクリアだな。やっと全英オープンで戦えるという思いが強かった。気負いはなかったけれど、自分がどこまで通用するか楽しみしかなかったよ」。
全英でのプレーもそうだが、「現地にたどり着くまで乗り継ぎも大変だった」と海外移動に苦労した。
1976年の全英オープン10位。
初出場でトップ10の好成績を収め、翌年の出場権まで獲得した鈴木規夫は、日本を発つ前にイングランド北西部にあるメジャー会場「ロイヤル・バークデールGC」の基礎知識を詰め込んで渡英した。
本戦出場権をかけて出場した予選会場(ウエスト・ランカシャCC)は、「ティーイングエリアのかなり先にフェアウエーがあって、茅(かや)が広がっていた。その上を打っていく感じだったね。つまり草原だよ。点と線をつながなくてはいけなかったから最初は打つ方向が分からず、とても苦労した」と、日本と違うコースに戸惑った。
ただ、本戦会場はローピングがあったため、打つ方向を認識できたという。
「全英での印象は、とにかくコースが干からびた状態で、気温が30度を超えていたから地面は硬くボールがよく転がった。ラフは深かったけど水気はない枯れた感じだったね」
同じコースで行われた71年の全英オープンに出場した先輩の橘田規プロから現地情報を聞いて臨んでいた。
「大変だったのは日本からの移動。当時所属していたグループ会社の米国支店スタッフが現地でアテンドする約束だった。待ち合わせは当時宿泊したホテルでした。とにかく、乗り継ぎが大変でアンカレジ経由で移動に16時間はかかったね。現地に着けば、ホテルとコースはタクシーでの行き来ですから不便もなかった。渡英費用は全部で100万円ぐらいかかった」
鈴木にとってゴルフ人生の一大転機ともなった全英オープン挑戦。本戦前の練習ラウンドでの出来事が話題になった。
日本ツアーで親交のあったグラハム・マーシュから、「ノリオ! 今日はレイ・フロイド、ゲーリー・プレーヤー、と俺で回るぞ!」と誘われ、世界のトップ選手たちと練習するまたとないチャンスに恵まれた。
フロイド、プレーヤー、マーシュは大会の注目選手であり、練習ラウンドには多くのゴルフ記者を引き連れた。当時24歳だった鈴木はそんな状況に浮足立つ一方で優越感も感じた。
そして世界のトップ選手の振る舞いや、プレーを徹底的に観察した。特に親日家だったプレーヤーは練習ラウンド中にもかかわらず「忍耐! 武士道!」と気軽に話かけてきた。
和やかな雰囲気の中でも、プレーヤーは目標に対してどのように攻めていくか、状況に合わせた攻め方のバリエーションが豊富だった。そして、点と線を結んでいく高精度なコントロールショットに驚き、世界のレベルの高さを肌で感じた。
トッププロとの練習ラウンド効果もあり、自然と各ホールの明確な攻略のイメージが出来上がり、それが本戦初日の3アンダー首位スタートにつながった。
鈴木にとっては世界を身近に感じるきっかけとなった全英オープン。出場に誘ってくれたピーター・トムソンからは大会後「GOOD!」と、笑顔でその偉業を称えられた。
全英オープンの活躍から、鈴木は日本ツアーでも大きな飛躍を遂げる。
メジャーは81年マスターズに出場し、日本ツアーの賞金ランクでは常にトップ10をキープ。しかし突然、病魔が襲う。
現役引退後に舞い込んだコースを造る未知の仕事
日本ツアー通算16勝。1974年から78年まで地元「九州オープン」5連覇。海外からの招待選手が強く、“日本人は勝てない”といわれた太平洋マスターズ連覇(79、80年)など“九州の若鷹”と呼ばれ、強かった鈴木規夫。
76年全英オープンでの活躍から知名度は世界に広がり、日本ツアーでも中心プロになっていった。
プロゴルファーとして絶頂期ともいえた83年5月、突然、病魔が襲う。急性肝炎だった。
「わずか1カ月の入院で、感覚が鈍くなったというか、いろいろと踏ん張りが利かなくなってしまった。本音を言えば、優勝争いができなくなったということは、試合に出ることも忍びない。ここぞ! というパットも決められなくなるキツさもあったからね。シードを落ちるということは試合に出る資格がないということです」
思い切りのいいプレースタイルは自身のゴルフ勘にも支えられていた。
その感覚を病気で失い、“自分らしさ”を発揮できないゴルフに苦しんだ。現役を退く決断に未練もなかった。
引退した鈴木に仕事が舞い込んでくる。当時所属した会社を通して、後楽園スタジアムとTPC(PGAツアーが運営するゴルフクラブ)が日本にゴルフ場を造るため、協力を要請された。
「プレーヤーという立場から、コース監修というまったく未知の分野です。何も分からないし、米国にあるTPCに行って、芝の種をまくことから、養生のための勉強。コースの造形の全てを学びに行きましたよ」
コースの造形や監修の技術を習得することは裏方として生きるということ。その覚悟ができた時、また新しい思いが鈴木には生まれ始める。
「コースを造るだけではダメだと思い、88年には後楽園スタジアムに若手育成プログラムの提案をしました。これが現在取り組んでいるジュニア育成の始まりですね」
男女問わず、数多くの門下生をツアープロになるまで育成。その手腕を買われ99年には、日本ゴルフツアー機構(JGTO)理事に就任。選手育成の先頭を切って2013年から3年間「JGTOゴルフ強化セミナー」にも着手した。
JGTOを辞めた今は、大分県国体選手のヘッドコーチから、高校生までのジュニアを中心に育成に力を注ぐ。
「ジュニア育成はとにかく楽しい。子供たちが3年後、30年後にどうなっているのか、自分で想像できる力を養えるように教える。まだまだやることがたくさんありますよ」
1976年全英オープン挑戦をキッカケに、半世紀近く経った今でもゴルフの奥深さを教え続ける。鈴木が育てる第2の“若鷹”が、低迷する男子ツアー界に風穴をあける日も近づいている。
▽鈴木規夫(すずき・のりお) 1951年10月12日生まれ、香川県坂出市出身。中学卒業後、定時制高校に通いながら高松CCの増田光彦プロに弟子入り。72年に21歳でプロテスト合格。日本ゴルフツアー機構発足の99年から2016年まで同理事、トーナメント運営に携わり、テレビ解説、コース監修、若手プロやジュニアの育成など多方面に活躍中。