「同和のドン 上田藤兵衛『人権』と『暴力』の戦後史」伊藤博敏著
部落差別に挑み、同和運動に半生を捧げた上田藤兵衛は、1945年、京都・山科の「夙」の被差別部落に生まれた。山科には日本の礎を築いた天智天皇陵がある。夙は墓守や清掃、葬送など死にまつわる仕事を担う賎民だった。
生家は老舗材木商で、上田は被差別意識をさほど持たずに育った。しかし、小学5年のとき、家業が倒産。500坪の屋敷から4畳半一間の暮らしに転落する。老舗のボンは、いっぱしのワルになっていった。
少年院、右翼への傾倒、自殺未遂、暴力沙汰、刑務所。人生の前半を修羅の巷で生きた上田は、30代も半ばを過ぎてそれまでの生き方を一変、同和運動に飛び込んでいく。上田が活動の場に選んだのは左翼系の部落解放同盟ではなく、自民党系の自由同和会だった。天皇の墓守の家に生まれ、敬神尊皇を刷り込まれて育った上田は、反体制を掲げる部落解放同盟とはソリが合わなかった。
以降、差別解消のための法整備や啓蒙活動に力を尽くし、77歳の現在、自由同和会京都府本部会長。上田の半生を追った本作は、日本の同和運動史であり、同和利権に絡む暴力団史でもあって、戦後史の知られざる一面を描き出した労作である。
裏社会にも幅広い人脈を持つ上田は、野中広務をはじめとする自民党政治家、同和利権に群がる暴力団、バブル紳士たちと持ちつ持たれつ、独自の運動を展開し、「同和のドン」と称されるに至った。
部落差別意識は根深いとはいえ、あからさまな人権侵害事案は減少、同和活動が停滞する中で、上田の活動は広く人権救済の方に向かっていく。国際的な連帯を求めて積極的に海外に出向く。しかし、差別撤廃も人権救済も容易ではない。ロシアのウクライナ侵攻は、戦後、国際連合が採択した「世界人権宣言」を踏みにじった。
上田は怒っている。後半生を懸けてきた活動は、まだまだ終わらない。
(講談社 1980円)