坂本龍一さんは政治に従属を強いられる芸術の「居場所」を案じていたのではないか
息子を含むニューヨークの撮影チームがまとめた映像は、残酷さを感じさせるほど静かで、強く、美しい。砂漠の旅人が山羊の皮袋に入れた水を一滴残さず飲みほすように、音楽家・坂本龍一は「最後の一滴」への凄まじい執念を見せた。YMOの成功、映画音楽の分野での世界的名声だけが彼のすべてではないのだ。その音楽的功績については、多すぎて、大きすぎて、もうそれだけで字数が尽きてしまうほど。いずれ決定的な音源集や研究本が編まれるのを待ちたい。
音楽業界に身を置くぼくには、彼と共通の知人は少なくない。でもぼく自身は最後まで面識はなかった。坂本世代の力を借りずに新しい音楽世界を作りたいという厄介な反骨精神ゆえに、彼とその作品から身を遠ざけてきたのは否定できない。でも娘の美雨さんがDJのラジオ番組には、浮遊感ある佇まいと美声に惹かれてゲスト出演したわけだから、われながら生半可だよなあ。反骨を貫くのもけっこう難しいというオハナシ。
訃報を今年1月に亡くなったYMOの高橋幸宏と結びつけて悲しむ音楽ファンが多いのは当然だろう。でもぼくが真っ先に思ったのは、同じ3月に亡くなった大江健三郎だ。何しろ坂本と大江の両氏は長年そろってこの国の「左派文化人」の象徴であり続けたのだから。知識人や芸術家が政治や社会といった現実の問題に積極的に参加することをアンガージュマンというが、最もわかりやすく体現したふたりが、相次いで星になっちゃった。さあどうするニッポンの左派よ。