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田中幾太郎ジャーナリスト

1958年、東京都生まれ。「週刊現代」記者を経てフリー。医療問題企業経営などにつ いて月刊誌や日刊ゲンダイに執筆。著書に「慶應幼稚舎の秘密」(ベスト新書)、 「慶應三田会の人脈と実力」(宝島新書)「三菱財閥 最強の秘密」(同)など。 日刊ゲンダイDIGITALで連載「名門校のトリビア」を書籍化した「名門校の真実」が好評発売中。

神奈川の雄「聖光学院」が重視する体験型学習の”遊び心“と非認知能力

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「神奈川県といえば、栄光学園(鎌倉市)が長年、進学校ナンバーワンに君臨してきたのですが、ここのところ危うくなっている。すでに、その座は入れ替わっているかもしれない」と話すのは大手学習塾の幹部。栄光学園を脅かしているのは、校名に"光"の文字が入り、戦後に開校したカトリック系の私立男子中高一貫校であることなど、共通項の多い聖光学院(横浜市)だ。

 1947年創立の栄光学園はすでに60年代、首都圏でその名が知られるようになっていた。一番わかりやすい進学校のバロメーターである東大合格者数はまだトップ10に入るまでにはなっていなかったが、難関大学への受験実績を着実に積み重ねていた。70年代半ばに初めて東大合格者数トップ10入りを果たすと、以降はその常連になり、知名度も全国区になっていった。

■07年に初めて東大合格者数トップ10入り

 一方、栄光学園から11年遅れて58年に開校した聖光学院が初めて東大合格者数トップ10に入ったのは2007年。以来15期連続でトップ10入りを続けている。「東大合格者数をそれほど重視しているわけではないし、ましてや栄光をライバル視もしていない」と学校関係者は話しながらも、どこか誇らしげな雰囲気が伝わってくる。

 特に21年は大きな差がついた。聖光学院の東大合格者は79人(現役69人)で全国5位だったのに対し、栄光学園は47人(34人)で13位と6期ぶりにトップ10から陥落した。とはいえ、これで聖光学院が栄光学園に勝ったというのは早計なようだ。聖光学院の1学年の生徒数は225~230人。栄光学園は約180人だ。

「ただ、ここ十数年の人気では聖光学院が上回っている。偏差値でもかなり差がついています」(学習塾幹部)

■02年にスタートした学校が誇る体験型講座「聖光塾」

 聖光学院の偏差値は神奈川県トップの70(四谷大塚調べ)。栄光学園は67である。聖光学院の人気が上昇している理由はどこにあるのだろうか。

「国公立大医学部への合格が多い点なども挙げられますが、そうした大学受験実績だけではありません。しっかりした授業カリキュラムを構築しながらも、生徒たちが伸び伸び学園生活が送れるように、さまざまな点で工夫している。そうしたところが保護者たちからも好感をもって受け入れられているようです」(学習塾幹部)

 学校関係者が「自慢のプログラム」と胸を張るのは、02年にスタートした「聖光塾」なる体験型学習講座。中1が行う「おもしろ実験教室」では、レモン電池や熱気球など、理科の教科書には出ていない実験に臨む。中1・2の三浦半島観音崎での体験学習では、潮だまりを観察したり、潜って採取した生物の標本づくり。中2・3の「フライフィッシング入門」では、生徒が自分で製作した毛バリを使って、ニジマス釣りに挑戦する。中1から高2までの各学年では、思考力を養うための「数学講座」もある。

■イチオシは課外活動プログラム「ジョブシャドウィング」

 他にも「本気の昆虫採集」、「里山の自然」、「ロボットを作ろう・動かそう」、「宇宙エレベータプロジェクト」など、ユニークな講座が目白押し。年間25以上の講座がある中で、イチオシはNPO法人の協力を得て行っている高1・2向けの課外活動プログラム「ジョブシャドウィング」だ。夏休みに企業、病院、大学研究室、建築事務所などに出向き、社会人に1日密着する。その姿を生徒一人ひとりが自分たちの目で確かめ、働くとはどういうことなのか、肌で感じようというのだ。ただ、残念ながら、同プログラムはコロナ禍のせいで20年以降は中止になっている。

■日本人初の学校長が打ち立てた3本柱

 聖光塾は今や聖光学院の教育にとって欠かせないアイテム。そこまで昇華させた功労者の一人として、真っ先に名前が挙がるのは聖光学院OBの工藤誠一校長(学校法人の理事長を兼任)。明治大法学部を卒業後、社会科の教員として母校に奉職。04年に校長に就任した。

「それまではずっと、校長職には外国人の修道士が就き、日本人がなったのは初めてです。工藤さんは聖光学院に在学中からリーダーシップを発揮。高2の時は学校最大のイベントである文化祭『聖光祭』の運営委員長も務めた。人をまとめる力は、教員になってさらに磨きがかかった。これがいいと思ったら、率先して自ら動いて進めていく先生です」(学校関係者)

 校長に就いた工藤氏は3つの柱を打ち立てた。まず「脱・進学校」。進学校としての特長を消そうというわけではない。しかし、大学受験だけに重きを置いてしまうと、生徒の非認知能力が育たないと工藤校長は考えたのである。認知能力は学力や知能指数など、数値化できるもの。一方、非認知能力は自己認識、意欲、忍耐力、協調性、対応力、創造力など、数値化しにくいものを指す。将来を豊かにするために欠かせない能力で、幼児期・学童期に加え、第2成長期である中学・高校の時期に一気に伸びると考えられている。

「聖光塾に遊び心をふんだんに取り入れているのも、非認知能力の成長に役立てようと意図があるからです。そうした中で、生徒たちに自分がやりたいことや、何が向いているかを発見してもらう。飽き飽きするような内容では意味がないのです」(学校関係者)

伝説のバンド「オフコース」を育んだ

 3つの柱の残りの2つは「生徒を学校に縛りつけない」と「開かれた学校」。自由な環境の中で、生徒たちが自身の才能を見つける機会をより多く提供するのが狙いだ。「生徒の自主性を尊重する姿勢は昔からあった」と振り返るのは70年代に在学していた60代のOB。

「ミッションスクールのわりには堅苦しい雰囲気はなく、気ままにやらしてもらっていました。その象徴が聖光祭だった。運営については生徒の自主性に任す部分が大きかった」

 聖光祭は偉大な音楽グループも生んでいる。オフコースである。最初のメンバーは小田和正、鈴木康博、地主道夫、須藤尊史の4人。いずれも、聖光学院が開校して3年目の1960年に入学した同級生だ。なお、小田と鈴木は入学する前からの知り合い。中学受験のために通っていた学習塾で出会った。小田も鈴木も第1志望は栄光学園だったが、2人とも合格できず、そろって第2志望の聖光学院に進んだ。

 高3の時に聖光祭に出演。これが同級生4人で演奏する最後になった。横浜市立大に進んだ須藤が抜けてしまったからだ。小田と地主は東北大、鈴木は東工大に入り、離ればなれになったが、互いに行き来して演奏活動を続けた。70年にはメジャーデビューも果たしたものの、結局、地主も就職時に脱退。オフコースは小田と鈴木の2人だけになり、フォークデュオとして活動するようになった。

「ちょうどその頃、中高生だった僕は2人の演奏を何度も聴いています。聖光祭に毎年のように出演していたのです。その後、3人の新メンバーが加入し、5人のバンドになり、大ヒットを連発するのですが、この時期の2人だけのオフコースが一番好きでした。彼らの歌声から聖光らしい誠実さが伝わってきて感動したのです」(OB)

 聖光学院の創立以来の校訓は「Be Gentlemen(紳士たれ)」。近頃はなかなか耳にする機会のない言葉だが、そこには「リーダーシップをとれる人間になれ」という意味が込められている。それは、物事に誠実に向き合い、自発的に行動することによってしか、生まれないものなのだろう。

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