「アウシュヴィッツ生還者からあなたへ」リリアナ・セグレ著 中村秀明訳
鶴見俊輔が「思想の科学」誌上で「語りつぐ戦後史」という対談企画を始めたのは1967年のこと。戦争体験を「語りつぐ」試みのかなり早い例だろう。76年には戦後生まれ人口が戦前生まれ人口を初めて上回り、現在の戦前生まれ人口は15%ほど。戦争体験者そのものの数が激減している。事情は海外でも同じ。本書は、30年にわたって自らのアウシュヴィッツ体験を語り続けてきたイタリア人女性が90歳を迎え、語り部活動に幕を下ろすことを決意。その最後の証言の記録である。
1930年にイタリアのミラノに生まれたリリアナは8歳の秋、突然、明日から学校へ行けなくなったことを父から告げられる。ファシスト政権が制定した人種法により、ユダヤ人である彼女は強制的に退学処分となったのだ。父と娘(母とは生後間もなく死別)は亡命を試みるも失敗。44年1月、13歳のリリアナは家畜用貨車に押し込まれ、翌2月、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所へ収容される。男女に選別された場所で見かけた父とはそれが最後になった。
人間としての尊厳を引き剥がされた長い日々を送った後、ドイツ軍の敗色が濃くなった45年1月、自らの罪業を隠蔽すべく、リリアナたち6万人の収容者たちはドイツ国内への「死の行進」を強いられ、過酷な飢えと寒さにさらされ、少なくとも1万5000人が途中で命を奪われた。そして5月1日、連合軍から逃げようと慌てふためいたマルヒョー収容所の所長が投げ捨てた拳銃が彼女の目の前にあった。その拳銃の引き金を引けば復讐できるが、思いとどまる。その選択をした瞬間に彼女は解放される──。
その後、著者は長い間自らの体験を口にすることはなかったが、60歳になって証言活動を開始。2018年に大統領任命の終身上院議員となり、インターネット上などでの人種差別的な言動や中傷などを監視する組織の新設を提案。訳者のインタビューに答えて、「私はいつも生きることを選んできました」と語る著者の言葉は、力強く胸に刺さってくる。 <狸>
(岩波書店 572円)