「非暴力の力」ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸、清水知子訳
先頃、政府は来年度から防衛費の大幅増額を検討すると発表した。台湾問題をめぐる米中の対立などを踏まえての防衛・抑止の強化が理由とされている。ロシアのウクライナへの武力侵攻もあって「国防」に対する関心が高まっているが、果たして力に対して力で抗することで本当に戦争を抑止できるのか。国家間だけではなく個人間においても、自己防衛の暴力は正当化しうるのか。本書はそんな根源的な問いを投げかけている。
著者は、まず問う。自己防衛というときの「自己」とは誰なのか、と。例えば自分が守る自己が「私、私の親族、私の共同体や国家や宗教に属するその他の人々、あるいは私と言語を共有する人々」だとすれば、特定の自己は守る価値があるが、そうでない人々の命は守る価値がない、つまりは暴力を行使しても良いという不平等が存在することになる。
こうした考えは、異なる民族、移民や性的マイノリティーたちに対する攻撃を正当化することにつながっていく。ヒトはけっして「個人」として生きているのではなく常に他の人との相互依存の関係によって結ばれる社会的紐帯(ちゅうたい)の中で生きている。つまり暴力とは、その「紐帯」への攻撃ということになる。
また、ヒトは非人間の生とも結ばれており、地球の存在と切り離しては存在できない。こうした「他者」とのつながりにおいても、環境破壊という暴力は地球上の生物との紐帯への攻撃ということになる。
著者は、フーコー、ベンヤミン、フロイトらの暴力論を跡付けながら、ともすれば理想論と片付けられてしまう「非暴力」の真の意味づけと実践的な行使のしかたを探っていく。大事なのは、非暴力は平等の関与がなければ意味をなさないということだ。特定の生が他の生よりも守られるという不平等感のもとに非暴力はあり得ない。道は遠いかもしれないが、我々が歩むべき道はここにしかないだろう。 <狸>
(青土社 2640円)