間村俊一(装幀家・俳人)
7月×日 極暑続く。品川「船清」にて納涼屋形船。5時出航。椅子、テーブル備え付けの豪華船。天婦羅旨し。お台場の風景が窓外を流れて壮快。
珍しく時代小説の装幀依頼が続く。極めつけは安部龍太郎著「ふりさけ見れば」(日本経済新聞出版 上・下各2200円)。900ページを超える大作である。舞台は700年代初頭の長安。遣唐留学生として入唐した阿倍仲麻呂と吉備真備の血沸き肉踊る冒険譚である。2人の友人井真成の不可解な死を契機に小説はミステリアスな空気に包まれ、詩人王維、軍人安禄山、宦官高力士、玄宗皇帝に楊貴妃といった強面過ぎる登場人物たちが跳梁跋扈する。一気呵成に読了した。
それにしてもである。後日復元された遣唐使船の写真を見たのだが、この間乗った屋形船の数倍ほどの大きさしかない。漂流やむなし。仲麻呂たちの艱難辛苦が偲ばれる。カラオケ熱唱。
7月×日 遠雷。仕事場近くの酒肆「しらとり」の7周年、神楽坂で祝宴。見番横丁のお稲荷さんにお賽銭をあげると、うしろで昼狐がコンと鳴いた。なんだお前か。
初めての香港は強烈であった。大通りに所狭しと迫り出す看板に圧倒された。謎のタイガーバーム・ガーデンに九龍城砦、歩いているだけでわくわくした。松浦寿輝著「香港陥落」(講談社 1980円)は国籍の違う3人の男たちが、日本軍占領前夜、占領下、そして解放後の3夜をそれぞれペニンシュラ・ホテルで会合する、鉤括弧のない会話体でつづられたロマン・ノワールである。後半のSideBは微妙に日付を変えて、異なる主人公がSideAを反復し、補完する。場所は路地裏の「百龍餐館」。全編を通して妖しくも饐えた臭いが充満する蠱惑的な香港が活写されている。しかし我々は知っている。60数年後のこの都市の惨状を。なんと30万人もの人々が香港を脱出したというではないか。この小説はかつてあった自由都市への著者渾身のオマージュであり、レクイエムであった。〈陥落前夜手袋小姐ペニンシュラ 俊一〉