今井むつみ(心理学者・慶応義塾大学環境情報学部教授)
10月×日 誰も行ったことがない場所に行き、誰もしたことがない冒険をして、誰も書いたことがない作品を書く。これが「イラク水滸伝」(文藝春秋 2420円)の著者高野秀行のモットーである。今回の探検は、イラク湿地帯。イラクと言うと国際紛争という不穏なイメージがつきまとうが、著者はそれには目もくれない。すでに多くのジャーナリストや学者が取り上げているからだ。
目をつけたのは、アフワールという謎の巨大湿地帯。ここは、シュメール文明を継承する謎の人々が生き、世界遺産に指定されている地だ。しかし、日本外務省は「その国、地域への渡航はどのような目的であっても止めろ」と勧告している。道もない、村もない。交渉すべき相手も判然としない。どこから手をつけていいかもわからない混沌とした地に、著者は行き当たりばったりとも思える行動力で、数々の困難を突破し、目的を遂げていく。そうだ、湿地帯で舟大工を探して、舟を作ってもらえばいいんだ! 舟大工なら多くの氏族と取引があり、湿地帯で最も顔の利く人に違いない。こんな感じだ。だから、「突破」といっても、決して力づくではない。むしろ風にしなう柳のような柔軟な適応力。これが著者の武器だ。
本書の分厚さに手がでにくい人も多いと思う。しかし、第一級のエンタメノンフィクションである。読み出したらとまらない。読了したときの感動。私は泣いてしまった。振り返ると人間にとって最も大事なことを教えられたことに気づく。
「コミュニケーション力」と「他文化・多様性への理解」。現代社会で、もっとも重視されるキーワードだ。それは漠然としていて、そらぞらしく、単なるきれいごとに思えることがほとんどだ。本書はそれがほんとうはどういうものかクリアに教えてくれる。まず現地の言語を学び、現地の人を笑わせる芸を身に付け、人々の懐に飛び込む。最初から偏見なく違う文化の人たちとつきあうことは難しい。しかし、同じ時空間で行動を共にする過程で偏見は修正され、理解と共感に変わっていく。他文化・多様性への理解とは頭ですることでなく、自分の身体で経験し、偏見を修正していくことなのだ。