“森保Jの心臓”遠藤航の成長過程 湘南時代の恩師・曺貴裁監督の言葉からひもといた
曺貴裁(元湘南監督/現・京都監督)
10月9日に行われた独ブンデスリーガ1部のウニオン・ベルリン戦。前節に負傷交代したシュツットガルトの主将・遠藤航がスタメンに復帰し、後半9分には60メートル近い距離を駆け上がって打点の高いヘッドもお見舞いした。チームは惜しくも敗れたが、ケガを不安視していた日本代表の森保一監督も安堵したはずだ。「ちょうど3年前、練習視察に行ったんですが航の全てが速くなっていて本当にビックリした。彼はブンデスリーガの強度に適応し、今は持ち前の得点能力も生かした仕事もしている。見ていて頼もしいですね」と湘南時代の曺監督もしみじみと語る。教え子の成長過程を恩師の言葉からひもといた──。
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■「おまえ、どこで見つけてきた?」
──遠藤を最初に見たのは南戸塚中学時代?
「中2の春に学校のグラウンドまで出向いて試合を見ました。一番の目的は将来性の高い長身GKをチェックすること。その時、たまたまCBをやっていたのが航。まだ身長が164~165センチくらいで華奢で足も速くなかった。それなのに空中にあるボールをピタッと胸トラップし、クサビのボールを正確に入れたのが目に留まった。『あいつ、面白いな』と思い、FWを含めた3人を湘南ユースの練習に呼んでもらっていいですか、と先生にお願いしました」
──その後、遠藤は湘南ユースの練習に参加した。
「中3になった4月に来てもらって早速、柏の高校1、2年生のサブチームとの練習試合に出しました。フィジカルはまだまだだったけど、技術や状況判断は際立っていたので、ぜひ取りたいと思いました。航本人に対して『ウチでやってみないか』と声をかけたけど、あまり反応がなかったかな(苦笑)。そんなに喜怒哀楽を出す子じゃなかったし、『この子、他(のJクラブ)も考えてるのかな』と思ったくらい(笑)。僕はどうしても欲しかったから、当時の大倉智強化部長(現J3いわき社長)に『必ずプロに近づけられる素材だと思う』と掛け合いました」
──遠藤自身も「曺さんがいなければ今の自分はなかった」と言っている。
「そんなことはないですよ。確かに横浜マリノスや横浜FCの関係者から『おまえ、どこで見つけてきた?』って言われましたけど、神奈川県には可能性がある子がたくさんいるということ。航だけじゃなくて伊東純也(スタッド・ランス)や小川航基(横浜FC)も、中学時代はJクラブにはいなかった。航も少し埋もれていただけなのかな、と思います」
■傑出した問題解決能力
──湘南ユース時代は?
「航は家の近くの金井高に通っていたのでそこから平塚まで来て、チームバスで伊勢原市にある産業能率大学のグラウンドで練習する毎日でした。移動時間は1時間以上かかったけど、ボールに空気を入れたり、ビブスを洗ったりと準備もきちんとやる子でした。今年、航が京都に来た時にも言ったのですが、『ユースの頃、航を呼んで話したことがないな』と。彼は僕が言おうとしたことを常に先回りし、仲間に伝えてくれる人間でしたからね。映像を見せて『ここを直せ』みたいな指示をしたこともない。ある意味、教本のような対応をする選手だったと思います。かといって、くそ真面目ではない。今でも子供っぽいところもありますよ(笑)」
──そんな遠藤にも挫折はあった?
「ユース入り直後に1度ありました。航は将来性ある素材だから、関東プリンスリーグ2部の開幕直後から使おうと思ったら、前橋育英戦の前日練習を風邪で休んだんです。それで僕は電話で怒った。『チャンスを与えられてモノにできないのは、プロを目指す選手として失格だぞ』と。かなり厳しい口調で言ったことをよく覚えています。それからは、一度も休むことはなかった。航はピッチ内外で同じミスを2回繰り返さない人間。その能力が非常に高かった。家庭での教育によるところが大きいのでしょうけど、空気を読む力や自己解決能力の高さは本当に群を抜いていた。自分が指導した選手の中ではピカイチですね」
──高2の時にはU-16日本代表入りした。
「09年の神奈川県国体選抜の一員として活躍して、大熊裕司監督(現横浜マリノスユース)率いるU-16代表に入りましたね。大熊とは同級生なんで『93年の早生まれでいい選手がいる』とひと声かけたら、豊田国際ユースサッカー大会に招集された。そこから中央での注目度が一気に高まりました」