名監督・松平康隆さんはアイデアマンで名演出家でもあった
松平康隆さん(1964年東京五輪・男子バレー銅、メキシコ大会・銀、ミュンヘン大会・金 監督・コーチ)
1964年東京オリンピックのバレーボール。“東洋の魔女”は金メダルに輝いたが、男子は銅メダル。そのためだろう、ファンやマスコミの注目度も低かった。
あれから56年。銅メダリストの菅原貞敬は、80歳を迎える直前の1月、鎮魂の旅に出た。
「すでに監督の坂上光男さん、コーチだった松平康隆さんも天国に召されたし、12人の代表選手のうち半分の6人が死んでいる。猫田勝敏は胃がんで39歳の若さで、酒飲みの南将之は58歳でね。中村祐造は腎臓を悪くして68歳のときにお迎えがきた……。その点、私はいまだ日立リヴァーレ(Vリーグ)のアドバイザーとしてバレーに携わっている。これも亡くなった仲間がいたからこそ。お世話になった人のお墓参りは当然です」
そう語る菅原は、まずは松平康隆の墓がある都下の多磨霊園に出向いた。松平が逝ったのは2011年12月31日。享年81。
東京大会から4年後のメキシコ大会で銀メダル、さらにミュンヘン大会ではついに金メダル獲得。男子バレーを世界一に導いた監督・松平は、同時に“演出家”でもあった。こう言っている。
「テレビ放映の際に観客が少ないと、視聴者はしらける。だから、すべての観客をメインスタンドに移動させ、満杯であるかのように放映してもらう。バレー人気を高めるための作戦のひとつだね」