真木和の失敗から、野口みずきが五輪メダルを狙うのに「十分な時間」が欲しかった
オリンピックのマラソンでは苦い経験がある。
真木和が1万メートル代表(12位)で出場した1992年バルセロナ五輪で、有森裕子は2時間32分49秒で銀メダルを手にした。このぐらいの時計で銀メダルを取れるのかと思ったら、翌年の世界陸上シュツットガルト大会では浅利純子が2時間30分3秒で金メダルを取った。
「1万メートルをナンボやっても世界では勝てん。マラソンをやろう」と真木に言ったら、「私は嫌です。次も1万メートルに出たいです」と言う。
ところが、だ。96年1月の東京シティハーフマラソンに出たら1時間8分18秒で優勝。ハーフマラソンの日本最高記録(当時)だった。前日までマラソン転向を口説いても「ロードは絶対に嫌です」とかたくなだったのに、レースが終わると「マラソンやります」とコロッと変わった。
アトランタ五輪は同年7月だ。マラソンの予選会に出るにも、東京国際は前年11月に終わっているし、1週間後の大阪国際には間に合わない。最終選考の3月の名古屋国際まで急ピッチでマラソンの練習を開始。真木にとって初めての中国・昆明での高地トレーニングを行ったが、その間に故障して痛みの残る状態で帰国することになってしまった。