3大会連続メダルに貢献 世界一の名セッターは底なしの酒豪
後頭部に目がある
18歳で日本代表入り。20歳で64年東京オリンピック出場を果たした猫田は、当時から天才セッターといわれた。
「当時のセッターは、前にトスを上げるのが当たり前。ところが、猫田はバックトスを自由自在に上げる。私らは『あいつの後頭部には目がある』と言っていた。キャプテンの出町豊さん、それに若い猫田のツーセッターが機能し、それが銅メダル獲得につながった」
こんなエピソードがある。ミュンヘンオリンピック開催1年前の71年、猫田は練習中に右腕を複雑骨折。監督の松平康隆は「もう金メダルは絶望的だ」と漏らすが、懸命のリハビリで復帰すると「金メダルはいただきだ!」。猫田の存在は絶大だったのだ。
4位でメダルを逃したモントリオール大会後、猫田は現役選手を引退。所属していた専売広島(現JTサンダーズ)の監督に就任。亡くなるまで指揮官を務めるが、優勝できずにこう言った。
「わしにとっては、世界一よりも日本一のほうが難しいかもしれん」
猫田勝敏が亡くなった24日後の83年9月28日、広島県立体育館で日本バレーボール協会葬が行われた。参列者は実に2000人に及んだ。
昨年の1月、それぞれの墓前で両手を合わせた菅原貞敬。その思いは、天に召された恩師や仲間たちに届いたにちがいない――。
▽ねこだ・かつとし 1944年、広島県生まれ。崇徳高校卒業後に日本専売公社広島地方局(現日本たばこ産業広島支店)入社。64年東京五輪からモントリオール大会まで4大会連続出場し、「世界一の名セッター」と称される。