シマノレーシング監督はあの“日本航空123便”に乗っていた
法大自転車競技部OBが先輩の山藤を語る。
「先輩は『秋田の田舎には信号がないため強くなった』なんて言っていたが、ひと言でいえば真面目人間。奥さんは喫茶店をやっていたが、親族の借金で精神的に参っていたと思う。私らOB会は、サラ金の連中が葬儀場まで来ていたため、香典は葬儀後に直接遺族に手渡した」
39歳で逝った山藤浩三の通算獲得賞金額は、1億7818万円。だが、サラ金業者の取り立ては半端じゃなかった……。
もうひとりのオリンピアン、辻昌憲の死はあまりにも不運だった。
山藤が一家心中した翌85年8月12日。群馬県の御巣鷹山に墜落し、520人の犠牲者を出した、あの「大阪行き日本航空123便」に搭乗していたのだ。
自転車競技の伝統校である、石川県の金沢高校を卒業し、中京大1年のときに東京オリンピック個人ロードレースに出場(途中棄権)。卒業後に大阪の大手自転車部品メーカーの島野工業(現シマノ)に入社し、27歳を迎えた73年に創設されたシマノレーシング初代監督に就任した。